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その他の軍師
呂尚
呂尚(りょしょう)は、紀元前11世紀ごろに活躍した周の軍師、後に斉の始祖。 姓は姜、氏は呂、名は尚または望、字は子牙または牙。 謚は太公。 斉太公、姜太公とも呼ばれる。 一般的には、太公望(たいこうぼう)という呼び名でも知られる。
周に仕えるようになった経緯については、伝承における呂尚像の節で後述するもの以外にも諸説紛々としており、推測の域を出ない。 また羌の出身とも言われているが、実際のところ不明。 周の軍師となり、文王の子武王を補佐し、殷の帝辛(受王)を牧野の戦いで打ち破る。 後に斉に封ぜられる。 兵法書『六韜』の著者とされたがこれは全くの創作(後代の戦略家による著作)である。
歴史上重要な人物にも拘らず、数々の伝説に包まれて実態がつかめない謎の人物である。 この原因として後述する封神演義等の伝奇物により、実像がかき消されてしまったともいえる。
伝承における呂尚像
太公望という別名は、渭水で釣りをしていたところを文王が「これぞわが太公(祖父)が待ち望んでいた人物である」と言われ召し抱えられたという話に由来する、と言われている。 ただし、「望」は元々「呪いの眼で見る」という意味を含むため、これが正しいかどうかは不明である。
この伝説は、日本の江戸時代の人々にも広く知られていたようであり、「釣れますか などと文王 側により」という川柳が残されている。 そのためこの故事にちなみ、日本では釣り好きを「太公望」と呼ぶ。 一方で中国で「太公望の魚釣り」(太公釣魚)と言えば、「下手の横好き」と言うニュアンスらしい。 ちなみに、中国陝西省宝鶏には太公望が釣りをしたという釣魚台があり、観光地となっている。
太公望は曲がっていないまっすぐな針を使い、さらにあえて水中に入れなかったとも言われ、このとき釣り上げた大魚の腹から『六韜』が出てきたという伝説がある。
また、呂尚が斉に封ぜられた時に昔別れた妻が縒りを戻そうと来たがこれを拒んだというエピソードがあり、「覆水盆に返らず」という諺はここから生まれたという。 盆とは、物を載せて運ぶための平たい容器ではなく、ボウル状の丸い容器、鉢や盥等のことである 。 但し盆器が登場したのは戦国時代以降であり、このエピソード自体が後年の創作とされる。
また、主君である武王と人材について論じた際、武王が血縁主義で人材を登用していることについて「国家が衰亡する」と説いたのに対し、武王は能力主義の呂尚に「家臣に乗っ取られる」と互いに警告を発しあっている逸話がある。 これも周王朝の衰微と、斉が田氏に乗っ取られた事実に基づく、後世の創作である可能性がある。

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陳平
陳 平(ちん ぺい、? - 紀元前178年)は、中国秦末から前漢初期にかけての政治家・軍師。
当初は魏咎・項羽などに仕官するものの長続きせず、最終的には劉邦に仕え、項羽との戦い(楚漢戦争)の中で危機に陥る劉邦を、さまざまな献策で救った。 その後、劉邦の遺言により丞相となり、呂雉亡き後の呂氏一族を滅ぼして劉氏の政権を守るという功績を立てた。
生涯
『史記』では世家、『漢書』では伝が立てられている。
陳平は陽武戸版(現在の河南省原陽県)の人。 生まれつき背が高く、実に見栄えがする容姿をしていた。 若いときは兄で農家の陳伯の元で勉学に励んでいた。 兄嫁は勉学ばかりに精を出し家業を手伝わない陳平に対して文句を言っていたが、伯はこの嫁を離縁してしまった。 伯は陳平の才に感じ入り期待していたのである。
ちなみに次のような逸話がある。 地元の有力者で張氏という人物の孫娘がいたが、その孫娘と結婚した相手5人全員が事故や病気などで死亡してしまい、それ以降孫娘を恐れ誰も嫁にしたがらなかった。 その話を聞いた陳平は葬儀屋の仕事を手伝い、その勤勉さが張氏の耳に触れることになる。 陳平は次の手として、貴族が乗る馬車の車輪を自宅の玄関に置いた。 葬儀の仕事が終わった後に家へ帰る陳平の後を付けていた張氏は、その車輪を見るや「陳平には高い志と天性がある」と思い、後日張氏の孫娘を陳平の嫁とした。 陳平はその持参金により多大な財産を手に入れ、その財産を元手に交際を広め知人を増やしていった。
陳勝・呉広の乱の乱が勃発すると、魏咎に仕えるようになるが、進言を聞いてもらえず、周りの讒言を恐れて逃亡する。 次に項羽に仕えて、謀反を起こした殷王・司馬?を降伏させた功績で都尉となったが、司馬?があっさり東進してきた劉邦に降ったため、項羽の怒りを恐れて再び出奔した。

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劉邦の名参謀として
陳平は出奔中に野盗などに襲われそうになったりするものの、先んじて自分の服や剣などを渡し命は守る。 そして裸一貫で漢にいた旧知の魏無知を頼り、そのつてで劉邦に面会する。 劉邦もその話し合いで陳平を気に入り、即日項羽時代と同じく都尉に任じた。
劉邦に長く仕える周勃と灌嬰に「兄嫁と密通していた(とは周勃たちが言っているだけなので真実かどうかは不明)」、「賄賂を取って地位を上下させた」などの品行の無さを訴えられるが、その弁明「役目は授かったが必要な経費を頂いておらず、漢楚の状況から待ってはおれず金品を受け取りました」や、「今の漢には才が要であり、品は才の後」という進言もあり、それでもなお劉邦は重用し、更に位を亜将(将軍に次ぐ位)まで上げ、韓王信に所属させた。
まもなく劉邦は項羽に追われ、?陽城に籠城することとなった。 不利な状況の中陳平は、項羽が疑り深い性格であるため部下との離間が容易に出来ると劉邦に進言し、劉邦もその実行に四万金もの大金を与えた。 そして范増・鍾離昧・竜且・周殷と言った項羽の重臣たちが項羽から自立しようとしているとの噂を項羽の耳に流し込んだ。 項羽はそれを信じて疑うようになり、項羽軍に大きなほころびが生じることとなった。 特に范増へは項羽配下随一の智謀の才であったためか念を入れ、項羽へ和平の申し入れを行い、使者を送らせ噂の真偽を確かめるよう仕向けた。 そして使者を范増の使わした使者として、豪華な宴席に招き、范増と仲が良いかのように振舞った。 しかし使者が項羽の使者であると聞くと、粗末な席に変えさせ、劉邦に「我が方は勝てるが、お情けで和平してもよい」と言わんばかりの横柄な態度で接させた。 このため范増は項羽に亜父と称され厚く信頼されていたにも係わらず失脚し、故郷に帰る途中で憤死した。
さらに韓信が斉王を名乗ろうと願い出た際には、憤る劉邦を張良とともに納得させた。 また広武山で項羽と和議を結んだ際には、和議を破って疲弊した項羽軍に攻め込むべきであると張良とともに進言し、最終的な漢の勝利を得ることとなった。
紀元前202年、劉邦が項羽に勝利して前漢が建てられると、陳平は故郷の戸版に封じられて戸版侯と成った。
紀元前200年、劉邦は匈奴討伐に自ら出征するが、冒頓単于の作戦で平城(現在の山西省大同付近)の白登山で包囲されて食糧も尽きてしまった。 ここで陳平の奇策で何とか和睦をして劉邦は帰る事ができた。 この作戦の内容は分からないが、冒頓単于の閼氏(皇后)に中国の美女が単于の物になるかもしれないと吹き込んで、その嫉妬心につけこんだ物と伝わっている。

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呂氏との闘い
紀元前195年、劉邦は燕王・盧綰(劉邦の親友であり、劉邦子飼いの唯一の王)討伐を樊?に命じる。 劉邦は出征したものの討とうとしなかった樊?(劉邦、盧綰とも親友)にも謀反の疑いを持ち、樊?をも捕らえて殺すように陳平に命じる。 しかし樊?は皇后呂雉の妹婿であり謀反の必然性は薄く、病床の劉邦の気の迷いと思われ、後難を恐れたこともあり、捕らえたものの処刑しようとはしなかった。 まもなく劉邦の死去を聞くと、劉邦の棺の傍らにかけつけ、大いに泣き喚くことで呂氏一族の警戒を解こうとした。
紀元前190年に曹参が死んだ後で左丞相(副首相格)に任じられて、その後の呂雉の専権時代には面従腹背の姿勢を保ち、呂雉と対立して失脚した王陵の後を受けて右丞相(正宰相格)となった。 しかし呂氏が中央の兵権を完全に握っているなど右丞相には権力がなく、実質的に名のみの役職であった。 陳平も酒と女に溺れ骨抜きになったふりをし、呂雉や夫(樊?)を捕らえられた恨みを持つ呂須から警戒心を持たれないようにして粛清の嵐を避け、反攻の機を伏して待った。
紀元前180年に呂雉の死を機として、陸賈の助言により陳平は宴会に見せかけ、宮廷内で大尉・周勃を始めとする反呂氏勢力や信頼できる人物を集め、密かに人脈を築き、打ち合わせを重ねていった。 監視を徹底していた呂氏も、酒好き女好きの右丞相が行う宴会なので、警戒をしなかった。 そして斉王の蜂起と、その討伐に出した灌嬰の寝返りなどに動揺する宮中において策略を用い、周勃などとともに呂雉の甥である呂禄の不安を煽らせるため、?商を脅迫し?商の息子の?奇が呂禄の友人であり呂禄に対し領地へ帰国するよう進言、呂禄はそれに従い兵権を返上させた。 そしてその兵で別の甥・呂産の帝位簒奪クーデターを鎮圧。 これを口実として呂氏を皆殺しにする逆クーデターを実行し、劉邦の子である代王劉恒(文帝)を立てた。 その後まもなく引退したが、周勃と文帝に乞われて再び右丞相となった。
なおクーデター鎮圧の際に、兵権は握ったものの兵士が従うか不明だったため、「劉氏に加担するものは左袒(衣の左の肩を脱ぐ)、呂氏に加担するものは右袒(衣の右の肩を脱ぐ)するよう」との触れを出し、兵士は全て左の肩を脱いだことが、義により味方することを意味する「左袒する」の故事成語となった。
紀元前179年、死去した。
ちなみに陳平の爵位は陳平の曾孫の陳何まで受け継がれていたが、陳何が他人の妻を寝取ったとして処刑され、爵位を奪われた。 また、同じく陳平の玄孫の陳掌は霍去病の母と密通をし、霍去病の義理の父となった。

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范増
范 増(はん ぞう、紀元前279年? - 紀元前204年)は、秦末期の楚の項梁と項羽の軍師である。 項羽からは亜父(あふ または あほ、父に亜ぐの意)と呼ばれ敬愛された。
居巣(現安徽省巣湖市居巣区)の人。 誰にも仕えずに暮らしていたが、陳勝・呉広の乱で項梁が挙兵した時、既に70歳になっていたが、彼の元を訪れて「かつての楚の懐王の子孫を楚王として立てるべきだ」と進言した。 項梁はこれを採用して心を探し出し、祖父と同じ懐王を名乗らせて擁立した(後の義帝)。
その後は項梁に仕えていたと思われるが、『史記』の記述では懐王を立てた後は、鴻門の会まで登場しない。
項梁が秦の章邯軍によって戦死した後、項羽は(跡を継いで総大将となった宋義の指揮下に入って)秦に攻められている趙の救援に向かい、劉邦は別働隊を率いて関中入りを目指した。 この時、懐王より「最初に関中に入った者を関中王とする」との約束が交わされた。 項羽は途中で進軍の方針を巡って宋義と対立し、これを斬って軍の指揮権を掌握し、章邯軍を打ち破って関中へ向かう。
しかし、その間に咸陽一番乗りの手柄は劉邦に奪われてしまった。 劉邦が咸陽で略奪などを行わなかったことを、范増は「天下を狙う大望有るゆえ」と察知し、劉邦を殺すよう項羽に進言した。 項羽も最初は激怒して劉邦を殺そうとしていたが、親族である項伯のとりなしにより、劉邦と面談することにした。 有名な「鴻門の会」である。 この会の途中で、范増は幾度も項羽らに劉邦暗殺を行うように指示したが、張良や項伯や樊?などに妨げられ、また項羽も決断できなかったため、結局劉邦を生きて帰らせてしまう。 会の後で、范増は劉邦を暗殺できなかったことを悔しがり「豎子、ともに謀るに足らず!」(小僧とは一緒に謀を行うことが出来ない!)と叫び、劉邦から贈られた器を叩きつけて壊した(豎子とは項羽を指す)。
その後、項羽が秦を滅亡させて諸将を封建する際には、「劉邦は危険だ」と主張して辺境の地(漢中)へ追いやり(これが左遷の故事となる)、また劉邦が討って出てきた場合に備え、秦の故地である関中には章邯ら旧秦の将軍たちを配置した。
だが、劉邦は韓信を得ると関中へ攻め入って章邯らを滅ぼし、楚漢戦争が激化。 范増も軍師として項羽を支えるものの、項羽は?陽の包囲戦(?陽の戦い)の際に劉邦の軍師陳平が仕掛けた離間の計にかかり、范増たちの忠誠を疑うようになる。 これに怒った范増は項羽に「天下の形勢はおおむね定まりました。 後は君王(項羽)自ら行ってください」と引退を宣言、帰郷する途中で背中に膿が溜まる病気にかかり死亡した。 紀元前204年のことである。
范増を失った後の項羽は、いくら戦闘に勝っても劉邦を滅ぼすことが出来ず、最終的には垓下の戦いで敗死する。 劉邦は楚漢戦争後に、「自分は張良・蕭何・韓信を使いこなせたが、項羽は范増ひとりすら上手く使いこなせなかった。 これが項羽の滅亡した原因である」と語った。
ちなみに「史記集解」によると、范増の故郷ではその無念の死を弔うために毎年祭事を続けていたと伝えている。
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